尖閣不発で終焉 石原都政13年の功罪

東京都知事の石原慎太郎が10月31日、正式に辞職した。「東京から日本を変える」と就任して13年余り。都政に残したものは何か。そして、近く結成されるという「石原新党」は勝算があるのだろうか。

 もはや、さしたる未練もないのか。石原都政の最終日はあっさりと終わりを告げた。

 「みなさんと一緒にやってきたことはすべて正しかったと思う」。31日、都議会で知事辞職への同意を得た石原は、都幹部を一堂に集めた庁議で10分ほどあいさつすると、都庁第一庁舎の2階正面玄関で職員から花束を受け取り、足早に車に乗り込んだ。

 石原の辞職と国政復帰表明は25日。都の幹部は一様に「まったくの寝耳に水ですよ」と話すが、しばらく前から腹はくくっていたのだろう。

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東京都知事を退任し、都庁を去る石原慎太郎氏(10月31日午後)



■最後の「石原流」

 9月下旬の自民党総裁選で息子の伸晃が安倍晋三に敗れ、臨時国会の召集も間近。国政が解散・総選挙に傾くなかで、11月中の新党結成に向け、一気呵成(かせい)に動き出す決断をした。

 決め手になったのは、9月11日の沖縄県・尖閣諸島の国有化だった。

 4期13年にわたった石原都政。尖閣購入計画は「石原流」をアピールするための最後の切り札だった。乾坤一擲(けんこんいってき)の政策テーマをぶちあげて世論を喚起し、反対論を押し切る。賛否は分かれるが、この政治手法が人気を支える原動力になってきた。

 尖閣諸島の問題も石原が4月中旬に「都が購入する」と表明した当初は「都民の税金でなぜ買うのか」との声が少なくなかったが、各方面から14億円を超す寄付が寄せられたことが明らかになるに従い、都議会にも容認論が広がっていった。

 石原の購入計画はこうだった。夏から秋にかけて尖閣諸島の調査を実施し、その後、都議会で購入費を盛り込んだ補正予算案を通す。そして、地権者と政府の土地の賃貸契約が切れる2013年春に購入するという段取りだ。 当然、それまでは知事は辞められない。6月半ばには、副知事3人を任期途中で退任させる人事を発表。石原による新党構想はすでに取り沙汰されていたが、都政に関わる多くは「すぐに辞めるつもりの人が幹部人事をいじるはずがない」と受け止めた。2020年の夏季五輪の候補地が決まる来年9月までは知事職にとどまるのではないかとの見方が優勢になっていた。

 ところが、尖閣問題が国有化で決着したことで石原ははしごを外される形となった。石原は「(民主党による)人気取りだ」と不快感を隠さなかった。最後の「石原流」は不発に終わり、突然の辞職表明と国政復帰宣言という演出を残して、都政を去ることになった。

 歴代2位の長期に及んだ石原都政。1期目のスタートはバブル崩壊後の長期不況で社会全体に閉塞感が強まっていた1999年4月だった。都政にスピード感を求め、トップダウンで政策を推し進める手法は、強引だという批判を伴いつつ、評価する有権者も少なくなかった。



■メガバンクと対立

 例えば、ディーゼル車への排ガス規制。トラック業界は規制強化に異を唱えたが、すすの入ったペットボトルを手に知事は大気汚染の改善を訴え、あっさりと押し切った。大手金融機関への外形標準課税の導入もそうだった。メガバンク首脳がみな反対したが、「銀行は過去の不良債権の処理を理由に税金を納めていない」と反対論を抑え込んだ。

 東京外郭環状道路(外環道)の事業化や羽田空港の再拡張も石原の指導力が発揮された好例だ。都独自の認証保育所制度も打ち出し、都立の4つの大学を合体させて首都大学東京も設立した。

 一方で、大々的に打ち上げたものの、実現しなかった政策も幾つもある。お台場にカジノをつくる構想、横田基地の軍民共用化、都心に流入する車に課金するロードプライシングの導入などである。

 しかし、石原が都政全般の改革に意欲をみせたのは1期目だけだったといっていいだろう。2期目は新銀行東京の設立、3期目は16年の夏季五輪招致を掲げたが、新銀行東京は設立早々に経営が悪化し、五輪招致には失敗した。

 とりわけ03年の2期目以降は都政への関心の薄れが顕著になり、都庁に来るのは週にせいぜい2、3日となった。その結果、国会議員時代からの秘書で当時、副知事になっていた浜渦武生に権限が集中した。その浜渦が都議会と対立し、石原が最終的に浜渦を更迭して事態を収拾せざるを得ない事件が起こった。都が実施した文化事業に身内を登用して「都政の私物化だ」と批判された時期もある。

 首長が期を重ねるほど、その権力に対する怨嗟(えんさ)の声が広がるのは常だが、石原都政も例外ではなかった。

 07年の3選時には「最後のご奉公」と自ら語り、11年春の知事選の前には一時、出馬しない意思を固めていた。

 「人生がもう迫っているけれど、あと書かなくちゃいけない長編小説が7本くらいあるのでね」。11年2月中旬の記者会見で知事がこう話したことがある。これも本音だったのだろう。

 しかし、自民や公明が4選出馬を強く求めた結果、石原は最終的に翻意した。09年秋に国政では民主党政権が誕生し、自民、公明にとっては確実に勝てる候補は石原以外にいなかったのだ。

 石原が出馬しなかった場合、政党の事前調査では前宮崎県知事の東国原英夫が勝利するという結果が出ていた。石原の東国原嫌いは都庁内では有名だ。東国原は東京都が夏季五輪招致に再挑戦することに否定的だったことも、かんに障っていた。

 都議会で4選出馬を表明したのは2011年3月11日。東日本大震災が日本中を震撼(しんかん)させる30分ほど前の出来事だった。

 それ以降は、震災対応が政策の中心となり、時間が瞬く間に過ぎていった。被災地に積み上がるがれきを都がいち早く受け入れるなど、石原らしさも垣間見えたが、特段の新施策は出てこなかった。

 知事は辞職表明の会見で、後継候補に作家で副知事の猪瀬直樹をあげた。自らの政策や路線が新知事に否定されることだけは嫌なのだろう。

 石原が毎週、都庁で欠かさないことがひとつだけあった。金曜日午後3時からの定例記者会見である。週に1度、テレビカメラの前に現れ、都政にとどまらない様々な出来事について歯にきぬ着せぬ論評をする。そして、都の政策を説明する時には必ず、「本当は国がやるべきだが、国がやらないから都がやる」と切り出す。

 自身が話している通り、体力の低下は年々覆い隠せなくなっていた。しかし、カメラの前ではそんな弱い姿は見せない。

 石原が都知事に初当選した時の首相は故・小渕恵三である。以降、13年間に森、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田と首相が次々にかわった。

 石原は現在、80歳。高齢にもかかわらず、政治家としての賞味期限を維持できたのはひとえに、首都東京の知事に長く君臨したからにほかならない。ほぼ1年ごとに首相が代わるという国政の混乱、特に民主党政権になって以降の外交・防衛政策の迷走が、アジアから右派と警戒される石原の存在感をいっそう際立たせたといっていいだろう。

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石原知事は広域幹線道路「東京外郭環状道路(外環道)」のうち、事業が凍結状態にある都内の建設予定地2カ所を視察した(99年10月)

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■維新と政策で隔たりも

 近く新党を結成する。95年に国会議員を辞職して以来、17年ぶりの国政への復帰だ。首長から国政に、という意味では日本維新の会を立ち上げた大阪市長の橋下徹と同じだ。中央省庁の官僚を強く批判する点も共通している。

 ただ、石原、橋下の二人を比較すると年齢以外にも大きな差がある。

 橋下は早くから道州制を掲げるなど地方分権に熱意がある。実現性はともかく、消費税の地方税化、教育委員会制度の廃止なども主張している。

 石原も「この国を牛耳る中央官僚の独善を変える」などと話すが、具体像はまったくみえない。中央集権体制は批判するが、この13年間に分権改革の旗を主導的に振ったことも、具体的な提案をしたこともない。

 石原は常々、「日本のために都知事をやっている」と話していた。首相になれなかった男が、その人気を背景に都知事をしていたということだ。そして「東京から日本を変える」と掲げたものの、その限界にぶつかって国政に舞い戻ろうとしている。

 これまで、浮上しては消えた石原新党構想。1期目の終わりごろには、新党を立ち上げたらどの程度の議席を取れるかを実際に調査していた。その時は踏みとどまった。当時は小泉政権だったからだ。元首相の小泉純一郎も石原と同様に国民に人気があったから、出番は無いと考えたのだろう。

 今回はどれだけ冷静に情勢を分析して新党結成に踏み切ったのだろうか。しかし、有権者は長い都政における功罪も知っている。混迷する国政への義憤と高齢であるが故のあせりが国政への復帰の主な理由とすれば、結果はおのずと知れているのではないだろうか。

=敬称略
2012/11/1 7:00 日本経済新聞